昭和44年06月28日 朝の御理解



 御理解 第36節
 「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」

 これはこのままこのまま頂いていいと思うのですね。ところがここにいろいろな神様やら、仏様やらを拝みよった人が、金光様一本にならしてもろうて、いわば生きるも死ぬるも金光様と腹を定めて信心になる。そうして信心を続けておるけれども、すぐにおかげが受けられるということになっていないと言う事ですよね。こうして皆さんは朝参りをなさる方達ちゃ、まぁ殆どが他の神様やら仏様を拝むと、言った様な事はまずないでしょう。拝むならもう金光様、唱えるなら金光様以外にないんです。
 だからそういう意味合いにおいての一心は出しておられる訳ですよね。そこでそんなら拝み方に一心が足りんだろうかと、一心不乱に拝むということ、それもあるかも知れない。そこで私はこのところをひとつ、そのう「草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」というところを今までこの御理解の中から、頂いて参りました今申しましたですねぇ。
 金光様一本に絞るという意味合いにも含まれておる事でございましょう。またむしろそれを言うておられるとも思われるんですけれども、この御理解の本当のまぁもっと深いところのもの、いわば一心を出したらすぐにおかげが受けられると仰る。そういうおかげに直結する様な一心とは、どう言う様な事だろうかと言う様なところに、焦点を置いてお話しをしたいと思うんですけれども。
 今朝御祈念中にしきりに私の心耳に響いて来る事なんです。あのう佐渡おけさというそのう民謡が有りますねえ。その中にこんな文句の歌があります。「来いと言うたとて行かりょか佐渡へ。佐渡は四十九里波の果て」ちゅうて。「来いと言うたとて行かりょか佐渡へ。佐渡は四十九里波の果て」。さぁ皆さんが合楽に御神縁を頂かれて、まぁ言うなら一番初めに見られるのは、私の信心だと思う私だとおもうんですねぇ。やぁ椛目の先生はおかげ頂いちゃるが、というものがいろんな意味でそのう感じられる訳ですね。
 昨日熊本からある先生がお参りしておられまして、ちょうど午前中から来て、それから一時の御祈念とそれから四時の私の御祈念を頂いて帰られました。本当に合楽ならでは、もう只々もう合楽に来さえすりゃ何にか頂いて帰られると、まぁ喜んで帰られましたんですけれどもね。成る程一時の御祈念なんかは、もうここお広前いっぱいでもうそれこそ、割れるような皆さん勢いであの御祈念をなさっておられるですね。あれにやはり触れただけでもやっぱり感動するんですよね。
 いわば皆さんが一心不乱に拝んでおられるということ。けれどもあぁいうあぁいうと言うが、今一時の御祈念であっておる意味合いにおいての、一心不乱ならば案外出来るんですよね。自分も本気でその気になれば、その時だけはもう何もかも忘れてしまっている。昨日典楽会の方達が発行しておるパンフレットのようなものが有りますが。その中にもある楽人さんが書いておりますのにです、どういう心配があってもどういう苦しみがあっても、琴の前に座らせて頂いたらその悩みやら、苦しみやらは忘れてしまう。
 それをいよいよその琴を壇で弾く事になったら、もう弾いておる時にゃもう何にもかにも忘れてしまっておる。これが楽人として、ようもようもこういう御用をさして頂いておると思います、と言う様な事が書いてある。だからねその事に一心になるから、その時だけでも悩みやら苦しみやらとかいうものがなくなってしまう。例えば一時の御祈念なんか、一生懸命にあの御祈念に、いわば合掌しておられるというかね。
 一緒に合わせてあぁしてあの御祈念に参加しておられる方は、恐らくはもう何にもかにも忘れる程しの何かを、心の中に頂かれるのであろうとこう思うです。けれどもねその一心でもなさそうですね。そういう一心不乱一心に拝む、けれどもそれはねそん時だけでも楽になれるということは、その時おかげを受けられるいろんな働きが始まる事は間違いないですね。ところが御祈念が終わるともう不安になる心配になる。
 例えばその楽人が言っておられるように、琴の前を外れたらもうやはり悩みであり、心配であり不平不足であるというのである。ですからその琴を弾いておる時だけは、おかげを受けられる状態にあるんですけれども、もう立上がった時にはそのおかげを今度は阻害する。そのおかげの邪魔をする心の働きが、もうそこには有る訳です。ですから草木でも芯というたら一つじゃと言う一心は。そういう一心も含められているでしょうけれども、もっともっと外に有ると私は思う。
 私がいつも言う様に本当に私の心の状態、私のおかげを頂いておる神様のこのような間違いのない働きを見せて下さり、頂かせて下さって勿体無い、こういうおかげを皆んなも頂かれるんだ。本気で私の信心を頂くという気になって、皆さんもどうぞおかげを受けて下さいと、まぁ私は言い続けておる訳ですからねここでは。ところがです例えば今朝の私がその頂きます、佐渡おけさのこの歌の文句からですね、いくら先生が来いと言うところで行かれる筈がないという、そんなものを感じたんです今日。
 私がいくら卓を叩いて、そういうことじゃおかげが受けられん。こうせにゃあぁせにゃ、こういうふうにといかに私が言うたところでです。佐渡ということは人偏に左と書いてありましょう。渡は渡ると書いちゃる。佐というのはここの事ですよね。御結界が左と言った様な意味合いも有りますよね。その佐はこの佐なんで佐渡の佐は、そこを信心で渡って来るというか、私はそういうふうにまぁその歌の文句のその字からそげん感じた。なら私が私の言う通りにしなさいよ。
 私が所まで信心を進めていらっしゃいとと言うてもです、先生あなたのような訳にはいきません、というものがそこには有るんです。いわゆる佐渡は四十九里波の上であると。そう簡単には行かれないのだ。四十九里ということ、四十九里ということもやはり、私は今日はそこん中から御理解を頂かなきゃならんと思うのですね。先生の言う通りにしとりゃずうっと苦るしんどらにゃならん。先生が言う通りにしとりゃずうっと修行しとらんならん四十九です。とてももてる段のこつじゃない。
 先生が言う通りにすんならもう、それこもうそんな訳にゃいかんというのはそこにある。四十九だ始終苦しいんだと。そこで私は思うてですねぇ、はぁ私がもういくら皆さんにそんならここまでこういう信心を頂いてこういう信心を体得すりゃ、皆んなもこんなおかげが受けられるから、さぁ親先生任せになって本気で信心させてもらいなさいよと、親先生任せになるということは、そのまま神様任せになることだから。確かに四十九であるなら難しい。始終苦しい。
 最近こりゃ福岡の高橋さんのところに、現れて来ておるおかげとでも申しましょうか、皆さんも御承知のように熱心に、福岡から毎日二回ないし三回お参りがあるんですからねぇ、いくら自動車だってとても出来るこつじゃない。しかもあのように忙しい仕事をしておられる訳ですけれども、もうそれこそ任せきっての事です。昨日からまた平和台の野球があっておりますから。やはり沢山のお弁当をあちらへ出されます。
 それがそのう前のお弁当を作らねばならんという注文があっておるのを、どうさせて頂こうかというお伺いでございましたが、雨が降ると思うて用意しなさいということであった。大体いうなら雨が降ると思うたら、用意せんでもいいわけですよね野球ですから、しかし雨の降ると思うて用意しなさいと言わっしゃった、これはどういうことじゃろうかと、そしたら雨が降らずにかえってからかんに天気になった訳ですよ。けれども降るかも分からん、親先生があげん言うちゃるから降るかわからんでそのう。
 ちびぃちびぃ百作り二百作り作ったんですね、向こうから注文の通りしとると、やっぱし大分余る事になったんです。だからそのううちの人達ちゃ、もうやぁやぁ言うて来られるから、言うて来られるたんびにこう作ったんです。ですからまぁきちっとその必要なだけ納める事が出来たんです。そんで昨日お届けをされますのにです、まぁ例えば分かりやすく言うと、まぁ去年と今年と申しましましょうか、昨年今年だけの事じゃありませんけれども、まぁいうならば去年なら昨年の例をとるとですね。
 神様が教えて下さる通りしておけば、もう本当にいうならばどんぴしゃりのおかげを頂いてきたんです。千作れと仰れば千がいけた。八百作れと仰れば八百が売れた。もう明日は作るなと仰れば、どんなに注文を取っておってももうピシャッと止めれば、もう明くる日は雨だと言った様なです、いわゆるそういうおかげを受けて来たんです。ところがね今年は全然反対、もう元旦早々から今年の信心は、こういう行き方で行けと言う様なひとつの行き方を頂いて。
 そしてその頂き方によって、そなら御神意を神様任せでのおかげ頂くというのですから、神様から言うて下さる事はみぃんないうなら外れておるです。ちぐはぐだち。ところがですねおかげだけは同んなじだちゅうんです。だからそれじゃったけん損したとか、日売損じたけんで売りそこのうたとか。と言った様なそのやっぱりおかげは同んなじだとこういう。この当たりになってくるとやはり四十九里ですよね。教えて頂く通ぉりにしておればね、もうそれこそ言う通ぉりにおかげを頂くというなら。
 これなら三つ子でも出来る様な事です言うならば。けれども最近例えば高橋さん、三福なら三福と言うお寿司屋さんの上に、現れてござる神様というのは、もうお伺いをしてもせんでもね、おかげが受けられるというところまで、信心が進んでおるちゅう事です。けれどもやはりお取次ぎを中心にしての事ですから、何時もお取次ぎを頂いて頂く。ですからこれはもう私がならいなくても、ここのところのおかげの会得はもう出来ていきよるということです。
 はぁ先生が死になさったけんで、もうお伺いする者がいなくなったね、というのならそれこそ座頭が杖を外れたようなものですけれども、いわば高橋さんの信心のあのう生き方という上にゃ、もう神様がですね神様のそこにいったあるおかげは、ちゃんとこう本当のおかげが現れて来る程しに、おかげを受けておられる。昨日その事をお届けされるんですよ。ですからその事が最近は有り難いと言う。
 昨日も一日忙しい一日だったらしいのですけれども、ちょうど茂さんと二人で一日がかりで御用せなならん事がございましたから、一日夕方まで御用頂いて帰られました。帰られてからもう遅う電話が掛って来て、明日のお寿司の事の明日の事についてのお伺いがあった。そしたら八百の注文が来とりますからどうしましょうか、五百位にしときなさいと私が言うたんですけれども、それは、それは五百作ればおかげが頂けるとか、頂けないとかそういうことじゃなか。
 もうそれでお取り次ぎを頂いて、それから先いわばおかげを受ける。もう五百て言われたから五百でそのうきっちり売れたと言った様な事ではない。もうその事はですねいわばもう問題じゃない。おかげの焦点に置いてはない、お取次ぎを頂いてさして頂いておると言う事だけが有り難い。そこにゃ神様の次の様々な働きを頂きましてねぇ。そのうおかげになって、まぁ今日の場合はどうなるか分かりません。はぁお湿りになるか分かりません。ですから信心というのがその辺の所がですね、分からせて頂くと言う事。
 例えば神様から頂いた通りにすると、却って難儀な事になるという、その難儀な事の中にです有り難いものを分からせてもらい、しかもそれがそんならおかげになっていっておると言う様なおかげ。これは例えば四十九里を越えて、いわば佐渡へ向かっておる信心だと私は思いますね。始終神様から頂く事はしらごとばっかり、ほんなこつじゃない、けれども例えばその四十九里をものともせずにです、いわば佐渡に向かって進んでおる。そこにはです成程おかげはきちっと現れておるということです。
 その前の日ももうそれこそ店の者あげて、支店の方も本店の方も、おおわらわで弁当作りじゃった。そん時ちょうど家庭問題で人間関係の事で、その奥さんのお友達という人が、悩みを聞いて欲しいと言うきた。それにですその忙し最中に二階に上がって貰うてから、四時間お話しをしたちゅうのです。しかし高橋さんあんたも偉くなったばい。しかもそういう心やすい仲で、今日はもう弁当作りでもう忙しいけん、明日いらっしゃいとも言わずにですね。それを例えばその事を放からかしといて。
 ところが先生放からかしておったたおかげでですね、そのうきちんとおかげを受けておる。その結果が出て来ておる訳ですよね。一にも神様、二にも神様、三にも神様というその生き方でいってる訳なんです。いわばそういう中にいわば佐渡へ向かって、段々進んでいっておられるという感じが致しします。成程これでこの調子でいけば佐渡までも、そんなに四十九里あるけれども、まぁある意味合いである場合にはスリルがあるだろうけれどねぇ、はぁ先生はあげん言いなさるばってん。
 こりゃまる損になるんじゃなかろうかと言った様な、不安もあるだろうけれどもです、けれどもおかげになっていきよる。この調子でいきゃ佐渡までもこりゃ大した事はないぞと、言う様な見通しがついていきよるわけです。大概の人がですね、御神意をお伺いするということになってきて、もうそのうきちっとおかげ頂いた時にゃ、もう神様にお願いすりゃ間違いないちゅてやりますよ誰だって。ところがそれがずうっと間違うて来るとですね、ぴしゃっと御神意を伺う事を止めるです皆んなが。
 やはり苦労にはなりたくない訳なんです。私はこの辺のところがですね、まぁだこれから先信心の段階というのは限りがないようでしょうけれども、そういう例えばそれ例えば合楽の親先生の言わしゃる通りすりゃ、絶対儲かると言う様な意味合いの事をおかげと言うならです、誰だってね商売する者ならそれこそもうまたたく間に蔵をたてましょう。ところが神様はそういう信心だけは、いつまでもいわばそうは問屋が卸さんというところがあって、本当な事へ本当な事へと信心を進めさせて下さる訳なんです。
 これはまぁ私が今朝から思いますにのにです、私の言う通りにしてくりゃ間違いない、私の言う通りすりゃ間違いないね。いわば私任せになりなさいということもです、それこそ来いと言うたとて行かりょか、佐渡にでありましょうけれどもです、佐渡は四十九里波の上でありますから、けれどもその四十九里というところをです、四十九ということをね、それを損するとか困った事になるとか、それを苦労にせずにですね、それを始終修行ということ、苦労ということを修行ということに頂く腹になればね。
 ここで損させて頂くならばよしさせてもらおう、それだけのめぐりのお取り払いを頂くなら有り難いじゃないかと言う様な、いわば頂き方。そういう私は四十九里というところをそう言う風に頂けれる様になって来るところから、いよいよその舟は佐渡の方に向かって進む訳なんです。そこでです日本国中のあらゆる神を信心するというが、というそこ当たりをですね、今こう言う風に頂いたらどうでしょうか。それこそお参りさせて頂いたらお願いせにゃ損するように、あれもこれも一杯お願いをしていく。
 また一生懸命御祈念させて貰う時にゃ、あれもこれもとお願いをするということをです、もういっぱい日本国中の神を拝んでおるようなもの、とまぁ頂いたらどうでしょうかねえ。頼んどかにゃあ損するように拝む頼む。人にものを頼むにもです、一人に任すとその人が力を入れてくれる。だからそういう様々な願い事はたくさん有るけれども、ひとつに絞る、それをひとつに絞る生き方、それはどういうことになるか。神様の成る程こういう難儀に直面しております。
 こういう悩み事がございます、と言うてお取り次ぎを頂いたら、それでもそこには神様の御都合が有る事でございましょうから、神様の御都合任せ、神様の良いようにお取り計らい下さいと、言った様なところに絞ると、沢山の願いがここに一つおかれるようですね。願い事はあります。痛けりゃ痛い痒けりゃ痒いということが有りますけれども、それを願ってもいいけれどもそれをひとつにする。それでもですね痛い事が修行じゃ、痒い事がめぐりのお取り払いじゃと仰るなら、
 それも有り難く受けるという、神様のお心任せのおかげにして下さいね。願い事はこんなに有ります、悩み事はこんなに持っておりますけれども、それを一応お取次ぎ頂いて、後は神様にお任せするという祈りひとつになる。そこへんが例えば四十九里を覚悟しなけりゃならないところですよね。沢山の願い事をどうぞそのことをお願いしますお願いします、お願いします。さぁそのことを頂くことだけがお取次ぎを頂く事、がだけになってにおりますとね、そうばかりは神様の場合はいけない場合がある。
 氏子がくれと言うてもやられない場合も有るてね。それこそ相談にくれて物事はかどらず、それでは却っておかげがはかどらないということ。大工を雇うても棟梁がなければならぬ、草木でも芯と言うたら一つじゃと。そこでここでいわば最後のその一心を出すと直ぐおかげが受けられるという、一心にここになっておるところですね。草木でも芯というたら一つじゃ。そこでもうひとつ向こうに一心があるということ。
 今私が願いをひとつにまとめるということも、ひとつにするということも、大変おかげをスムーズにしていくこれは理がありますね。けれどもまぁいっちょ向こうにです、草木でも芯というたらひとつじゃと、神信心もこの一心を出すとすぐに、おかげが受けられると仰る一心とはどういう一心か。お互いが祈らせてもらう拝ませてもらう、その拝ませて頂くということは祈らせて頂く事は、どこに焦点を置いて拝むか。
 皆さん御祈念をされる時にいきなり柏手打て、どうぞ今日もあの事商売繁盛の事、健康の事なら交通安全の事と平穏にいろいろに願われるでしょう。願っていいんですけれどね、その願う前にね、心をひとつにしとかにゃいかんのです。それはどういうことかと言うと私の心の中にです、まず一番始めに願わなければならないことは、どうぞ私の心の中に平常心を頂かせて下さいということなんです。穏やかな心を頂かせて下さいということなんです。和らぎ賀ぶ心を頂かせて下さいということなんです。
 琴の前に座ったらなにもかも忘れると言った様な、そういう心の状態をまず頂くということを願わにゃならん。これが一心なんです。この一心を出さずしていよいよ願うのはね、日本国中の神を拝んでおるようなもんです。自分の心の中にじぃっと御祈念させて頂いておるとですね、もうあれもおかげこれもおかげ、これでは自分がおかげの受けられないはずだと言った様なものを、自分の心の中に感じて、そこを詫び改まり又はお礼を申させて頂いておるとです、自分の心の中がひとつになって来る。
 和らぎ賀ぶ心ひとつになって来る。どんな場合でも神様にお任せするより他にはない。人間の知恵力で出来る事じゃないのだから、この神様にお任せするより他にないという心が頂けて来る。これが和賀心いわゆる平常心。その平常心をもってです穏やかな和らぎ賀ぶ心をもって、私はここでは一心。その一心を出すとすぐにおかげが受けられるというのである。もうそこには自分が助かっておるというおかげが有りますもん。すぐにおかげが受けられる、そういう心ですよ。
 そういう心を土台にしてです、実は今日はこうこうでございます。交通安全を願うこともよかろう健康のことを願うこともよかろう、商売繁盛万事万端の御都合お繰り合わせを願うこともよかろう。まずその一心を心の中に頂いての一心を、ここにに絞っておいて、そこから願いを立てる。自分が心の中にですそういう和らぎ賀ぶ心が出来た時に、御神意を伺う訳です。お取次を頂く訳です。そうすると例えば右になろうが左になろうが、もう親先生任せ神様任せというて、四十九里もなんのそのですね。
 いわゆる佐渡へ向かって親先生の仰るところへ向かって、信心がずうっと進んでいくおかげが受けられる。そういう心の状態にならなければです、私が来いと言うたとて来られんのが当たり前なのです。そげんこつ言うたっちゃ今田植えの真っ最中ですけん、とても来られません。そげんこつ言うたっちゃあぁですからとこうですからと、自分の事を言いたくなって来る。ところが自分の心がです、そのいわゆる祈りに祈らせてもろうて、祈らせて頂く焦点が私の心の中に安らぎを与えて下さい。
 和らぎ賀びを与えて下さいという一心、この一心を出す。その一心を出すところからです、心の中に親先生の言われる事が素直に素直に入って来る。初めの間は親先生の言う通りすりゃ損すると言った様な感じがあったけれども、そこを苦労とせずにそれを修行として頂いていきよったら、そういうちぐはぐなね神様のお答えはちぐはぐだけれども、実際はそれがおかげになっていっておるという、いわば高橋さんの最近の体験、昨年から今年にかけての信心の進展、信心のひとつ向上がそこに感じられます。
 どんなに四十九里もあり、しかも波の上であってもです、一心私の心の上に本当の和らぎ賀ぶ心を一心もって信心させてもらうならばです、神様任せになるということも親先生任せになるということもです、そこを楽しゅう有り難う任せられる。だからそういう人達の上にはです、ここまで来いと言うかね、来いと言うたとて行かりょか佐渡へていうことじゃなくてです。親先生の言われる通りに行かせて頂くということが有り難い。それは波も高かろう、スリルも有ろうけれど。
 そこんところにひとつのむしろ楽しみを感じさせてもろうて、神様はこういう所を通らせて下さっておるが、どういうおかげを下さるお積りだろうかと言う様に、その神様のおかげを心の中に想像出来るような楽しみがある訳なんです。けれどもこの事はお願いをする、この事はお伺いをするけれども、この事は言いよると却って怖い事になっちゃならんからというてですね、そこから逃れようという信心では、いわゆる来いと言うたとて行かりょか佐渡へということになるのじゃないかとこう思うのです。
 一心を出せば直ぐにおかげが受けられると仰る一心とはね、願い事を一つにまとめることから、もうひとつのならその土台になる願いというものは、私共の心の上にね、御祈念をなさるならまず御祈念をなさる前に、ずぅっと自分の心が神様に向かう、喜びの心が湧いてくる、心が平安安心になってくる、その一心をまず頂いて、そして願い有る事を頼ませてもらうというおかげを頂いたら、直ぐにおかげが受けられるという体験を、必ず受けられる事であろうと私は思いますね。
   どうぞ。